エール藤堂先生はビルマで死亡する?モデルの遠藤喜美治も戦死したのかについても

朝ドラ「エール」の第一話で鉄男が藤堂先生のお墓に行くシーンがあります。

この時点で藤堂先生はお亡くなりになっています。

ですがその死因については、まだわかっておらず戦争で戦死するのか?

戦争から帰還し、その他の原因で他界するのかは分かっていませんでした。

ですが、物語も後半に差しかかりとうとう藤堂先生の死因が明らかになります。

今回は藤堂先生の死因とモデルについて深堀りしたいと思います。

エール藤堂先生はビルマで死亡する?

藤堂先生の死因も気になるところですが、まずは先生が戦争に行った理由について説明します。

藤堂先生が戦争に行った理由

まずはじめに先生が戦争に行った理由です。

先生が戦争に行った時の年齢なのですが第74話の時代設定は1938年(昭13)6月。

裕一は28歳。

藤堂先生は47歳です。

戦争に行くには少々年齢がいき過ぎていると感じました。

ですが先生は「予備役将校」だったと自分で言っていました。

予備役将校とは、学生のときに陸海空軍および海兵隊の将校を養成するための教育課程を受けており緊急時は軍隊に入らなければならなかったのです。

そして、父親も軍人であり昔からそういう家庭で育ち教育を受けきた為でした。

これが藤堂先生が戦争に行った理由です。

藤堂先生はビルマで死亡

祐一はビルマで新聞記者の大倉憲三という男に出会ます。

大倉は藤堂先生が同地の駐屯地にいること教えてくれます。

前線のやや後方で補給路の警備にあたる部隊の隊長をしていくとのことでした。

祐一は音と華の事を思うと戦地に行く事を悩んでいましたが、自分は音楽で皆を勇気づけたいと戦地に向かいます。

そこで藤堂先生がと再開しコンサートを開きたいと相談します。

楽団を作りコンサートの練習を行いその夜は酒を酌み交わしました。

ですが次の日、藤堂先生はお亡くなりになります。

モデルの遠藤喜美治も戦死したのかについても

ここでは藤堂先生の死因について書いてあります。

また藤堂先生のモデル戦死したのでしょうか!?詳しく調べてみました。

藤堂先生の死因

祐一と酒を飲み交わした翌日。

コンサートの当日に事件は起きます。

本番前にもう一度、練習を行おうとしていたその時、敵からの攻撃を受けます。

藤堂先生は祐一を車の下に押し込み銃撃戦が始まります!

そこで藤堂先生は、敵の兵士に銃で打たれ戦死してしまいます。

それからまもなく、インパール作戦は中止になりました。

およそ9万人の兵士が投入され、生き残りはわずか1万数千人しかいませんでした。

モデルの遠藤喜美治も戦死したのか?

ここで気になるのが、藤堂先生のモデルの遠藤喜美治(えんどう・きみはる)さんは戦争で戦死したのでしょうか?

遠藤さんは、古関裕而(こせき・ゆうじ)さんの担任の先生で小学生3年生から6年生まで受け持ったそうです。

遠藤先生は教師としてとても熱心な方でした。

特に音楽に関しては、自ら作曲するばかりか生徒たちにも作曲させるなど音楽に力を入れておられたそうです。

その遠藤先生がお亡くなりになったのは1971年ですので東京オリンピックは終わっていたことになります。

ですので、藤堂先生のモデル遠藤喜美治さんは戦死していないことになります。

まとめ

今回は藤堂先生の死因について深堀りしました。

藤堂先生は祐一に再開するもののコンサートも開けず銃撃戦でなくなってしまいました。

藤堂先生のモデル遠藤喜美治さんは1971年でお亡くなりになっており戦死ではないことがわかりました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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